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ゾンビ映画の本質について思考過程メモ

1)ゾンビ=「死という概念」の具現化。

 

本来、死によって今生から消えゆく存在が、転化して残存するとしたら?

 

というフィクション。

 

死が残存するようになることによって、生死感が変容する。

シリアス系ゾンビ映画の大半で、「人との争い」のほうが残酷で過酷であると描かれるのは、人々の生死感そのものが変容しているから?

 

 

2)もしくは「生死感の逆転」とまで言えるか?

本来、死は性と結びついた概念。

有性生殖を手に入れたとき、多様性を担保するためのシステムとして自死の概念が生じた。

 

つまり死によってメンバーが消えていくことで、総体としての種(もしくは群)の環境への適性がより向上する。

 

死による消失は、有性生殖による多様性の創造とセットの概念。

ゾンビ世界においては、生は死に転化して、単一化された死(ゾンビ)が増殖するのでこのサイクルが逆転する。

 

to be continued...

 

 

 

「007 SPECTRE」に見る、ジェームズ・ボンドというオッサン向けアイドル

オラフォーである我々世代の男は、オッサンになるということを明確に日々意識している。

日々落ちる体力。部下や後輩とのジェネレーションギャップは広がるばかり。

頭は薄くなり、加齢臭が気になりだす。

 

オッサンになると、趣味嗜好も変わるのですが、映画もまた然りです。

いわゆる「ミッドライフクライシス」を描いた映画に、強く感情移入できるようになる。

 

【ミッドライフクライシス】

または「ミドルエイジクライシス」。「中年の危機」と訳される。

中年期を迎えた、特に男性に訪れる不安症の一種。中年期に、些細なきっかけから思ってもみなかった自分の本心に気付き、価値観が揺さぶられたり、葛藤が起こること。

 

 

 

この「ミッドライフクライシス」を描いた代表的な映画といえば「アメリカン・ビューティ」(1999)。

この映画がアカデミー賞を受賞したとき、私たちは学生だった。

ちょっとエロいシーンがあるけどピンと来ない映画、くらいに捉えていた20代。

今見直すと、ケビン・スペイシー演じる主人公のレスターの気持ちに一段とフォーカスすることができる。シュールで場当たり的に見えた結末ですら、オッサンの思いを凝縮したハッピーエンドに見えてくるから不思議だ。

 

アメリカン・ビューティー」を監督したサム・メンデスは、最近封切られて話題になっている「007 SPECTRE(スペクター)」(2015)の監督でもある。

 

考えてみれば、「007」こそ、元祖・「ミッドライフクライシス」のオッサン向け映画かも知れない。

 

トム・フォードのスーツ、オメガの腕時計に身をつつみアストンマーティンを乗りこなしながら颯爽と任務をこなす姿は、サラリーマン向けのスーパーヒーロー。

革ジャン・Tシャツ姿でバイクを乗り回すトム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」とはターゲットが明確に違うことが良くわかる。

 

まず、ジェームス・ボンドは年上にも年下にもモテモテ(SPECTREのボンドガールは50代のモニカ・ベルッチと20代のレア・セドゥだ)。

アラフォーのオッサンはまだまだモテたいのだが、どんどんモテなくなっていく。冗談ではなく、このギャップが「ミッドライフクライシス」の原因の一つなんじゃないかと。

 

ボンドの行動原理は「熱情」で単独行動も辞さないのに、国家への忠誠心は揺るがない点も、社畜ミドルの心をくすぐるのだ。

 

アクションシーンをデスクワークに脳内変換すれば、理想のサラリーマン像が出来上がり。ジェームスボンドへの憧れは、「ミッドライフクライシス」の初期症状なのかもしれない。

 

次にドラマではありますがブレイキング・バッド(2008-2013)も、「ミッドライフクライシス」について語った物語。

50歳を迎えた主人公のウォルターは、しがない科学教師。自身の身体が癌に侵されていることを知った彼は、死後家族への資金を残すために悪の道へ踏み込んでいく。

 

主として描かれるのは道徳的な善悪二元論や薄っぺらな家族愛などではなく、人生の終わりを視野に捉えた中年オヤジが価値観を変容させていく過程であり、ダークでリアルなオッサンの物語。

 

我々オッサンが、「悪落ち」していくウォルターの姿にカタルシスを覚えるのは、これまでしがない教師職としてつつましく生きてきた彼が、中年期の(文字通り)危機的状況をその知識と決断で強引にブレイクスルーしながら、自分自身の過去の価値観をもブレイクしていくという、中年期の自己成長の物語に共感と憧れを抱くからにほかならない。

 

中年期、我々男性は、これまで喉から手が出るほど欲しかった「安定」を手に入れる。

仕事は落ち着き、後輩や部下が出来、家族が出来、社会的にかつてないタフさを手に入れる。

 

反面、身体が徐々に衰えはじめ、人生の終わりが視野に入ってきたとき、ふと思うのだ。

 

「これでよかったんだっけ?」

「家族のためにと頑張ってきたが、家族は俺を愛しているだろうか?」

「なんで俺はこれをしてないんだっけ?」

「なんでこんなことに悩んでいるんだろう」

 

言葉を変えれば、少年期から青年期を経て壮年へ、社会の中で継続的に「成長」し続けることを強いられてきた男性にとって、体力的に自分のピークが終わったことを悟るということは、自分の精神的な成長の終わりをも意味している。

 

ジェームス・ボンドのような超人的な活躍ができない我々には、せめてささやかな日常の新しさや新鮮さが必要なのかもしれない。

 

 

 

「28日後」⇒「ウォーキング・デッド」⇒?

「28日後」は、ゾンビ映画として解釈すると、パンデミックそのものの描写を大幅省き、ゾンビをある程度コントロールできる状況下における人間同志の争いにフォーカスした作品だ。

 
テーマ自体は、初代「ナイト」以降、当たり前に織り込まれていた主要テーマの一つであるが、単純に「本当に怖いのは人間」という教訓めいた結論を匂わすに留まらず、ゾンビによって崩壊した世界で繰り返し起こりうる社会的な関係性の変質に視点をシフトさせえた点は評価に値する。
 
言い換えれば、ゾンビ映画に長期的に敷衍する「その後」の視点を明確に持ち込んだと言える。
「28日後」のその先の半年後・1年後・3年後・5年後はどうなっていくのだろうかと想像を刺激する。
 
この視点の変容はドラマ『ウォーキング・デッド』に引き継がれ、継続的に描かれていく。
 
最初の2週間のパンデミックで、都市部を中心に人類の9割は死滅する。
田舎や島嶼部など隔離された区域では汚染は比較的ゆっくりと広がるが、数ヶ月のうちに同じ運命をたどる。
 
ゾンビによる文明崩壊から半年もたつと、既存の秩序は壊滅し、生き延びるために結託した人々によっていくつかのコミュニティが生まれるが、その大半は自堕落に崩壊する。
物資の取り合いや疑心暗鬼、嫉妬、組織内の主導件争いは、このような状態でも人が人を殺す理由に十分だ。
 
秩序を重んじ、他者と未来に対して誠実であろうとするいくつかのコミュニティは、一定期間生き延びるが、そのほとんどは1年以上保持されることはない。
 
この世界では、善悪のバランスを取りつづけることは非常に難しいからだ。
 
 奇跡的に1年以上保持されたコミュニティも、様々な危機を潜り抜けてきたが故の慎重さから、他のコミュニティとの戦争に巻き込まれることは多々あれ、合体することは非常に難しくなる。
 
その先にある未来は?自分だったどうする?
この想像(妄想)の連鎖こそが、ゾンビ映画の醍醐味と言える。
 
 

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ最高傑作は「2」であるという主張

バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの面白さの源泉は、言わずもがなだが、時間旅行にともなう「現在」感覚のズレに起因する。

 
時間旅行を繰り返す中で、「現在(今・Now)」だったはずの時間は「新しい未来」となり、「過去」だったはずの時間が「現在」や「過去から見た未来」として認識される。
この時間間隔の視差が生み出す、くらくらするような酩酊感と裏腹に、杓子定規なほどていねいにハメ込まれた伏線 - 照応のパズルが、教科書通りの正確さでタイムラインに沿って解消されていくという、メリハリの利いた心地よさを快楽原則としている。
 
 この快楽原則を改題として考えた時、最高傑作は「2」であるという論に異を挟む余地は無いのではないだろうか?
 
前作によって書き換えられた「新しい未来」である「現在(1985年)」からスタートし、「未来(2015年)」「失敗した現在(ビフが支配する1985年)」「失敗した現在につながる過去(1955年)」を経て、「過去につながっていたもっと過去(1885年)」への旅を予感させて物語は終了する。
時間旅行のざっくりとした行程だけ見てもあらすじとして最強である。
 
前作によって一度描きなおされた「過去」を、自ら追体験し、再び描き直す。
再構築した歴史を、別の視点から再構築し直すトリックの巧みさと、子どもでも理解できる噛み砕かれた演出は類を見ない。
 

中でも、最初の3分は驚愕だ。

承前という形で(続編なので当然であるが)唐突にはじまったストーリーは、「前回のおさらい」と「以降の物語の重要な伏線」を巻きちらしながら「未来へ転移するシーン」(最初のクライマックス)まで、たったの3分間で描き切る。
前作の視聴体験という観客にとっての「過去」の想起から始まり、これから起こりうるストーリーの予感つまり「未来」を感じさせつつ、「現在」進行形の物語の世界に没入させた刹那、一瞬のうちに物理的にも「未来」へ転移する。
 
 
その後も、ストーリー全体を通しての過去と未来の結節点である1955年を、再三に渡り最構築し、自らが描き直した歴史そのものを、改めて上書きしていくその様は、神秘的ですらある。
 
1955年という時間が、過去から、現在から、未来から、様々な方法で上書きされていく。
1955年は、あらかじめ過去として存在していたにも関わらず、現在として・また最終的には未来として描かれているという混濁した視差による陶酔感をもっとも集中的に味わえるのは「2」なのだ。
 
劇中でドクが一人ごちたように、宇宙的に重要な意味を持つ瞬間となっているかのように。
 
考えてみれば、この物語において、55年を結節点とした「時の流れ」は、60年代や70年代をすっとばし、50年代的なるものがそのまま80年代を形づくるという強引な因果関係を描いていく。
 
さらにもう一歩進めば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の世界観において、特に「2」の世界観においては、「2015年がどうあるべきかという未来観」を実現するべく「1955年がリアルな今」として描かれているのであって、「1985年はその途中経過に過ぎない」とさえ言えるのだろう。
 
つまり、2015年という今日においてバック・トゥ・ザ・フューチャー2』を視聴した我々は、また新しい視点で楽しむことができるはずだ。
かつて感じたあるべき未来が、今であるという「現在」感覚の異様さをベースに、ここへ至った過去・または次のあるべき未来について思いを及ぼすことになるはずだ。
 

良い映画とは何なのか、超個人的なまとめ

前略、掲題の件。

 

フィルムがデジタル化され、極めて低価格で再流通される現代、「映画の評価」や「評価の蓄積」もまた容易となった。

 

人々は映画を視聴するのと同じくらいの容易さで、5つ星のレーティングをサクサクとつけていく。映画消費と評価のスピードは、この数年で飛躍的に伸びている。

だが、映画の良し悪しの判断は、未だにムツカシイ。

 

映画はTVゲームのように、メディア自体が担保する体験性が高くないので、「面白いと感じられたかどうか」自体に観客の努力を要する場合がある。

 

「エンターテイメントとして、観客の努力を必要とする時点でダメ」と切り捨てるのは表層的だし、一方で、深遠で含蓄があるものしか評価しないのもスタンスとしては極端だと思う。

私は、映画を観るときに、以下の4つの判断基準をもって観るようにしている、というのを超個人的な経験からまとめてみた。

これまでの経験上、下記4点を満たしている映画は、末永く私の心を潤してくれているからだ。

 

【超個人的、良い映画の特徴】

  1. 何度観ても面白い
  2. 結末を知っても楽しめる
  3. 様々なジャンルの顔をしている
  4. 自分の成長に応じて、新しい気づきがある
 
1、何度見ても面白い
「映画監督になりたければ10回同じ映画を観ろ」と言ったのは淀川長治だったと何かで読んだが、良い映画は何度観ても面白い。
少なくても、3回連続で観るくらいは堪えうるし、一旦飽きても、後日見直すとまた楽しめる。
だから私は映画を観ながら、「この映画はもう一回観たいか?」を自問する。
時が経ちディテールの記憶が薄れた時、もう一度自問する「前に観たことあるけど、また観たいか?」1回目の評価を覆して、何度も観た方が気にいる場合もある。
そこに描きこまれた人間や関係性の妙は、真に迫っていればいるほど、リピートに堪えうるものになっているはずなのだ。
 
 
2、結末を知っても楽しめる
私にとって映画とは、ストーリーのことではない。
ストーリーを通して登場人物の感情や行動、人間関係の「動き」を目の当たりにし、自分自身の知性や感性にフィードバックする体験だと思っている。
結末を知ってしまったくらいで面白くなくなる映画は、浅い。
1、とも関連するが、結末だけが「オチ」の映画は2回目見ても面白くは無い。
 
 
3、様々なジャンルの顔をしている
昔、映画の撮影監督をしている先輩に「映画を撮りたければゴッドファーザーを観ろ」と言われた。
「はあ、地獄の黙示録じゃだめなんですか?」と頓珍漢な返答をした私に、そのカメラマンさんはこう諭してくれた。
ゴッドファーザーには、様々な映画のエッセンスが入っている。【アクション映画】でもあり、【恋愛映画】でもあり、【青春映画】でもある。【家族愛を描いた映画】であると同時に、【マイケルの成長を描く映画】でもある。【マフィア(社会悪)】を描きつつ、【正義】についても描いている」。
確かに、映画が描くのは不可避的に人間そのものと、その周辺に発生する関係性であることを考えれば、これも自明の理だ。
人間の人生をジャンル分けすることは出来ないのだから。
 
 
4、自分の成長に応じて、新しい気付きがある
言葉を変えれば、「世代の差異がリアルに描かれている」ということでもあるかも知れないが、それだけではない。
映画に描かれている人間が、リアルであれば、自分の成熟度に応じて「分からないこと」があるのものまた当然。
子どもの頃、初めて『スターウォーズ』を観た時、まったく分からなかったダースベーダーの気持ちに、30超えて初めて共感できたりする。
社会の中で自分の立場が変わることで、新しい見方ができるのが良い映画だと思う。
 
 
以上、しかし私はリアルな人間ドラマが好きかというと、むしろ逆で、トリッキーなエンターテイメントや寓話的なストーリーが好きだったりします。
 
 リアルとトリック、あとはこの配分をどうするか。
それこそが映画の魔・・・。
 

 

 

「世界侵略: ロサンゼルス決戦」という戦争映画風ゾンビ映画

SFの仮面をかぶっているが、実態は戦争映画。

という仮面をかぶっているが、真の実態はゾンビ映画なのではないか。

 

突然現れた謎の生命体が、同時多発的に世界各地を侵略し

滅亡のフチに立たされた悲壮感とともに物語は幕を開ける。

これはまさにゾンビ映画のプロットそのものだ。

 

戦争映画は「死」を持って人間性の本質を描く。

この人はなぜ死なねばならなかったのか、

戦場で当たり前に起こる「死」の当たり前ならざる価値とはなんなのか。

 

一方ゾンビ映画にとって、死は予定調和であり、危機を増加させてみせる小道具でしかない。

敵であるゾンビが「死」そのものなのだから、人物の死には描くべき価値は無い。

 

戦争映画とゾンビ映画の本質的な違いはここにある。

 

この映画において、人物の死はゾンビ映画的だ。

人類が危機に瀕している中で、生存の手段を左右する小道具でしかない。

 

物語のクライマックスが、誰かの生か死ではなく

「敵の倒し方」の発見と実行であることから見ても、これは明らかではないだろうか。

刀語(かたながたり)、あるいは「刀など無い」

名前を探す旅。

言うまでもなく、この物語はロードムービーである。

 

父親が流刑された無人島で、社会と関わらずに生きてきた主人公「虚刀流七代目当主 鑢七花」と、彼を陰謀渦巻く世間に引きずり出した尾張幕府家鳴将軍家直轄 預奉所軍所総監督 奇策士とがめ」

 

ふたりとも、舌を噛みそうな一見意味のわからない肩書きを持たされ、物語冒頭からこの肩書きとセットで自己紹介され続ける。

肩書きとは、本来人間性と切り離された虚飾であるが、この物語においては特にその虚飾性が強調される。

 

物語は、ロードーム―ビーの王道的展開に漏れず、この二人の旅は、本来の名前と、名前の持つ真の意味を知る過程として描かれる。

 

旅も目的もまた「伝説の刀鍛冶、四季崎記紀の『完成形変体刀』12本の収集」と称され、一度耳にしただけでは内容が理解しにくい音節で隠されていることからも分かるとおり、フェイクでしかない。

 

鑢七花は、虚飾に満ちた肩書きとともにフェイクの旅を進めながら、フェイクではない感情を芽生えさせていく。

 

当初は突然現れたとがめに与えられた感情であった「とがめに惚れている」というフェイクの動機。それが真実に変わった瞬間、物語は大団円に向けて加速するのだが、物語の最後に、旅の継続とともに匿名性への回帰を明示されていることからもこの旅が真の名の発見=自己発見の旅であることを裏打ちしている。

 

虚刀流七代目当主という虚飾の肩書きは、「四季崎記紀の『完成形変体刀』12本」同様に、彼を自己変革の物語へ引きずり込むためのマクガフィンに過ぎない。

 

虚刀流などという、はなから存在していない刀を得物にしているのだから、この展開は当然である。

 

語るべき刀など、最初から無かった。

そこに若者が二人居た。それだけの物語である。

 

テーマとしては、どこか「宗三左文字」を彷彿とさせるエピソード。

事実は小説より奇なり。時の権力者を渡り歩いた来歴は、史実もまた奇怪なり。

宗三左文字 - Wikipedia